導入:「臆病者」か「天才」か?
「特攻」が美化され、死ぬことが正義とされた狂気の時代。 そんな中で、たった一人「私は妻と娘のために、生きて帰ります」と言い放った男がいました。
彼の名は、宮部久蔵。 ある者は彼を「海軍一の臆病者」と罵り、ある者は「誰よりも空を愛した天才」と讃えました。
映画『永遠の0』は、単なる戦争映画ではありません。現代に生きる孫が、祖父の足跡を辿る「極上のヒューマン・ミステリー」です。 今回は、生き残った者たちの証言から見えてきた「強さ」の本質と、議論を呼んだラストシーンの「微笑み」の意味について考察します。
あらすじと登場人物
物語は、現代を生きる佐伯健太郎が、実の祖父・宮部久蔵について調べることから始まります。 彼は特攻隊員として散った人物でしたが、戦友たちの証言はあまりに酷いものでした。「命惜しさに逃げ回っていた」「恥さらし」。
しかし、調査を進めるにつれ、宮部がなぜそこまで「生」に執着したのか、その真意が浮かび上がってきます。
- 宮部久蔵(岡田准一): 凄腕の零戦パイロット。「生きて帰る」という約束を守るため、乱戦でも無理をせず生存を優先していた。
- 大石賢一郎(夏八木勲): 健太郎の育ての祖父。宮部とは浅からぬ因縁を持つ。
【考察1】成功者たちが持っていた「死線を越えた魂」
この映画の構成で秀逸なのは、現代パートでインタビューを受ける元戦友たちが、みな一様に「現代社会での成功者」として描かれている点です。 大企業の会長であったり、ヤクザの親分の様な度胸を持っていたり。
これを見て強く感じたのは、「死線をくぐり抜けた人間の胆力」です。 彼らにとって、現代社会のビジネスのトラブルや修羅場など、機銃掃射の雨に比べれば「ぬるま湯」のようなものなのでしょう。
「死ぬ気でやれば何でもできる」という言葉がありますが、彼らは文字通り死ぬ気で生き抜いてきました。その「魂の洗練」が、戦後の日本を復興させ、成功へと導いたのだと痛感させられます。この姿は、現代を生きる私たちのやる気を強く引き立ててくれます。
【考察2】教え子の屍(しかばね)の上に生きる苦悩
宮部久蔵は、天才的な技術を持ちながら、多くの若者の特攻を見送ってきました。 「生きたい」と願う自分が、特攻する教え子の死へのアシストをする役目を果たし続ける矛盾。彼は、死んでいった教え子たちの屍の上に生かされている感覚に、精神をすり減らしていきました。
時代に逆らい、孤独と強い意志で「生」を貫いてきた彼ですが、その心は限界を迎えていたのかもしれません。
そして運命の日。彼は自分のエンジン不調の機体を見抜き、部下である大石賢一郎に譲ります。 大石はその後、生き残り、宮部の妻・松乃と娘を支えることになります。
宮部が機体を交換したのは、単なる気まぐれではなく、人の為に役に立ちたいという大石の人柄。「自分より長く生き、家族を助けてくれる男」として大石を選んだからではないでしょうか。
【考察3】ラストシーンの「ニヤリ」が意味するもの
この映画最大の見どころであり、多くの議論を呼んだラストシーン。 敵艦に特攻する直前、宮部久蔵の表情が一瞬アップになり、彼は「ニヤリ」と不敵に微笑みます。
なぜ、彼は死の瞬間に笑ったのか?
「家族への呪い」からの解放
これまで彼を縛り付けていたのは、「必ず生きて帰らなければならない」という家族への愛であり、同時に重い呪いでもありました。 大石に機体を譲り、家族を託したことで、彼は初めてその呪縛から解き放たれました。 「これでもう、自分のために飛べる」「自分は約束を果たした(託した)」という安堵があったのかもしれません。
技術者としての「勝利」
そしてもう一つ。彼はあの瞬間、敵の弾幕を完璧に見切り、回避していました。 「死ぬことが正義」の時代に、生きるために磨き続けてきた「技量」。 その技術の結晶を、最後の最後で遺憾なく発揮し、標的を捉えた。
あの笑みは、時代に抗い続けた男が、パイロットとして、そして一人の男として「やり遂げた(勝った)」という達成感の表れだったのではないでしょうか。 臆病者と罵られながらも研ぎ澄ませた牙が、最期の瞬間に光った。あの表情には、悲壮感よりもある種の「清々しさ」さえ感じました。
まとめ:創作に活かせる「多面的な人物描写」
映画『永遠の0』は、一人の男を「臆病者」と見るか「英雄」と見るか、視点によって像が変わる面白さがありました。
正直なところ、私はこの映画を少し冷めた目(穿った見方)で見始めていました。 戦時中、「お国のために命を捨てる」ことが美徳とされた時代ですが、果たして個人の本音として、本当にそれを望んでいた人がどれだけいたのでしょうか。洗脳や強制もあったでしょうが、多くの人は単純に「死にたくない」と思っていたはずです。
主人公・宮部久蔵もそうです。「家族のために生きて帰る」という言葉は、生きるための希望(呪い)となって彼を支えていましたが、その根底には「ただ死にたくない」という、人間としてごく当たり前の感情があったのではないでしょうか。
名誉の戦死が尊ばれ、生への執着が「臆病者」と罵られた時代。 しかし、そんな狂気の中で「死にたくない」と足掻くことこそが、最も人間らしく、正常な姿だったのではないかと私は思います。だからこそ、皆から臆病者と批判されるのです。
しかし、映画で伝えたいことは、宮部が己の死を恐れていたのでは全くなく、死んだ後の家族の境遇を考えていたという事。戦況予測や整備のこだわり等、映画で節々から伝わる、彼の聡明さや先見性がより一層家族の事、ひいては日本の未来のことを考えていたと見受けられます。
劇中では涙が止まりませんでした。
特に最後の最後に見せたあの「笑み」です。
もし彼が単なる「死ぬのが怖い人」なら、最期の瞬間は恐怖に歪んでいたはずです。しかし、彼は笑いました。 あの一瞬の表情から私が感じたのは、恐怖ではありません。
「卓越した技術で、敵を討ち倒す」
そこには、今まで生きるために研ぎ澄まし、そして抑えていた技量を叩きつける、一人の「日本男児」としての意地と誇りがありました。 「死にたくない」という感情を超え、パイロットとして戦い抜いた男の勝利宣言。あの笑顔を見た瞬間、私はこの映画の凄みに打ちのめされたのです。
小説や創作においても、主人公の心情をすべて言葉で説明するのではなく、「他人の評価」や「最期の表情」で読者に想像させることの重要性を教えてくれます。
「死」ばかりが称賛された時代に、「生」の技術を極めた男。 その生き様は、形を変えて現代を生きる私たちにも「強く生きろ」と訴えかけてくるようです。

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