就活をしている人、もう社会の荒波に揉まれている人。
「働きたくない」──多くの人が心の底でそう思っているはずだ。
朝起きて会社に行き、やりたくもない仕事をこなし、気づけば一日が終わっている。
それが「大人になる」ことなのか?
でも、もしすべての労働から解放されたとして、それは本当に自由だろうか。
働くことはクソだ。だが、クソの中にも人生を面白くする“価値”がある。そう、願いたい。そう信じたい。でないとやってられない。
私が何となく思う労働観についてまとめてみた。
「労働はクソだがお金を得る以外にも価値がある」これが私の労働観だ。
労働が「嫌なもの、できればしたくないもの」である事と「お金以外にも価値があるもの」である事は両立できる。
私は制限のある下でしか自由を感じられない不自由な人間なので、人生に張り合いを持たせるために程良いストレスと時間的制約が必要だ。もちろん、お金を稼ぐという事は巡り巡って他者に対して利益を与える行為であるからという理由でもお金以外に価値のある行為だと言えるだろう。特に現代では何事も、ビジネスで稼げて成功するテーマというのは他者の不満を解決する事や便利と感じて貰えて消費者に利用してもらえる事柄が多い。したがって直接目に見えないパソコンでカタカタするサラリーマンも誰かの役に立つ価値のある労働をしていると言えるだろう。
しかし私として労働に一番価値を感じるのは人生に張り合いを与えるという利己的な部分だ。もし仕事は全てAIにやってもらい、生活の大半を自動化し、欲望のまま貪り食らい、欲しいものは全て与えられ、やりたいことをし続けられる様なユートピアがあったとしたらそれはディストピアの見間違いだろう。きっと好きな事を見つける事すら難しい。今のは極端な話であったが、例えばする事の無くなった夏休みに虚無感を感じる事や突然与えられた休暇にたじろぐ様に私は「何かやらなくちゃならない事がありながらもそれをこなし時間を作り、好きな事をする」ことが大事であって人生に張り合いを与えるものだと思う。労働は自由を謳歌するためのスパイスであると考える。
近代以降、今までは主に奴隷や下級民が担っていた労働は一転して価値あるもの(特に神から与えられた使命)として認知されてきた。社会貢献や自己実現に繋がるからだ。しかしそれは資本家が働く者に対してこき使う言い分としている様に感じる。多くの消費者は余暇ですら供給側に支配されている様に感じるからだ。自動車の製造会社の社長が労働者に対して与えた賃金で自社の車を買ってもらう。貴族と違って余暇の使い方を教わってこなかった階層へ休日の使い方としてキャンプを提供し、レジャー用品を買ってもらう様に誘導する。現代では主にスマホのショート動画でAIのリコメンド機能を使って徹底的に中毒にさせる。そのような意味で「労働は善き行為」とするのは資本家が労働者に対しての賢い洗脳の様にも思える。
一方で過去、労働は主に肉体労働を示していたが精神的労働の増えた現在では知的な労働・作品に価値を与えられているように感じる。その証拠として最近では仕事風景や勉強作業動画に再生数が回り、広告収入として得られる。労働した故に得られる対価だけでなく労働そのものに価値が与えられている。ここでお金を得るための労働の風景を見せることで得ているのは結局広告収入によるお金なので「お金以外の価値」に該当しない様に思えるが労働風景(時計を机に置き、長時間のプログラミングや勉強、リフォームの様子等々)が需要になっている事は視聴者に少なからず、やる気や活力といったものを与えられている様に感じる。
労働に対して様々側面があるので一言でまとめられないが、やはり私個人の一番の労働観としては「労働はクソであるがお金を得る以外にも価値のあるものだ」という言葉で締めくくられる。

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